2012年 07月 05日
鎌倉散策① 鶴ヶ岡八幡宮
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7月4日、OさんとUさんと一緒にトールペイントをする予定でしたが
前日にお二人に
「明日、鎌倉に行きませんか~」
と誘っていただき急遽予定を変更して鎌倉を散策することになりました。
当日、私の住むマンション棟の玄関前まで車でOさんが迎えに来てくださり、
午前10時30分、いざ鎌倉へ~
平日とあって道路は全く渋滞なし・・30分足らずで目の前に鶴ヶ岡八幡宮の三之鳥居が現れました。
若宮大路を少し南に下ったあたりに車を止め
二之鳥居から、段葛(だんかずら)の参道が続きます。
段葛は北条政子の安産を祈願して造営された参道で、
道路の中央に二筋の葛石を並べて周囲の道路よりも一段高くなっています。
往時は由比ガ浜まで続いていたのだそうです。
このあたりに目的のお店があるはずなんだけれどな・・
本日の第一目的であるランチを食べに段葛を左に見ながら北へ歩いて行くと
ようやくそれらしきお店が見つかりました。
が、しかし・・・お店の中に人影はなし・・
なんと~この日お店は定休日でした。残念。。。
気を取り直して
鶴ヶ岡八幡宮三之鳥居を記念撮影。
緑の中を走り抜けてく真っ赤なくるま~♪
鶴ヶ岡八幡宮は、日本三大八幡宮の一社。
鳥居をくぐると太鼓橋脇に七夕祭りの飾りが風になびいてきれいでした。
境内の参道を歩くと、右手に源平池。
池の島には旗上弁天社が祀られています。
池は蓮の葉にうめつくされ・・
しかし蓮の花の見頃はこれからのようです。
反対側の立入禁止の方向には綺麗に花が咲いてるのが見えるのになぁ・・残念。
参道をさらに進み
正面に見えるのは舞殿。
頼朝と妻の政子の求めに応じ「静御前」が、ここで舞を舞ったという話は有名ですね。
静は京でも評判の白拍子で清涼殿で雨乞いの祈祷会があったとき選ばれた舞女の中でも
舞においても容姿においても随一といわれたほどの美女だったそうです。
その静は平家追討軍の総大将源義経にみそめられて義経の側室となります。
平家追討の第一の功労者だった義経でしたが、兄頼朝の怒りをかい追われる身となります。
義経は西国に逃れることを決意し、静をともなって都を脱出、
しかし大物浦沖で船が難破し、西国落ちは果たせず、
その後、天王寺、吉野山と義経と静の逃避行は続き、
深い雪の中で、義経一行は追及の手を逃れるため大峰山に向かうことに。。
しかし大峰山は女人禁制、静と義経一行は分かれざるを得ず、
再会を約して別々の道を取ることになりました。
小学生のころ、奈良県に住んでいた私は、吉野山に遠足に行く機会がたびたびありました。
学校の先生に「ここが義経と静御前が別れた場所だよ。」と教わったのは薄暗く寂しい山奥でした。
絵本で牛若丸や弁慶に親しみを持っていた私は、
子供心に兄に追われて深い山中を逃げ、恋人と別れなければならない義経、
義経の子を身ごもっていながら愛しい人と別れなければならなかった静のことを
かわいそうにと思ったことを思い出しました。
義経がつけてくれたおつきのものたちに金品を奪われ、
女性の身で雪の中をさまよっていた静はやがて捕われの身となりました。
義経が平家追討の大願を果たし京都に華々しく凱旋してからまだ半年しか経っていない
1185年(文治元年)11月17日のことだったそうです。
静は京都六波羅で詮議を受けた後、鎌倉へ送られ、鎌倉でも義経探索の厳しい詮議をうけ
そして、頼朝から八幡宮の神前で舞を奉納せよとの命令をうけます。
敵地で、さらし者のような扱いを受けることを拒んだ静ですが
命令には逆らえず、舞を舞ったそうです。
「吉野山 峰の白雪ふみわけて 入りにし人の跡ぞ恋しき」
「しづやしづ賤のをだまき くり返し 昔を今に なすよしもがな」
義経を慕い切々と歌い舞う静に、頼朝は烈火のごとく怒ったと伝えられています。
その頼朝を妻の政子がいさめ頼朝は怒りを解き、静は命を救われます。
1186年(文治2年)4月8日、潅仏会の花祭りの日の出来ごとだったそうです。
その7月、静は安達新三郎清経の屋敷で男児を産みましたが
頼朝はこの児を静から取り上げ、由比ガ浜の海に沈ませたそうです。
その後、静と母の磯禅師は京都へ帰されました。
彼女を憐れんだ政子が多くの宝を持たせたそうです。
静のその後は不明なのだそうです。
悲しい恋をした女性として多くの伝説が残っています。
舞殿後方の階段の上に本宮(上宮)があります。
その長い階段の途中に
かっては樹齢800年とも1000年余ともいわれていた銀杏の木がありました。
建保7年(1219年)1月27日、
源頼家の子で八幡宮の別当を務めていた公暁がこの銀杏の木に隠れて待ち伏せ、
源実朝を殺害したという伝説は有名ですね。
そのことから大銀杏は隠れ銀杏という別名がありました。
平成22年(2010年)3月10日4時40分頃に、強風のために大銀杏は根元から倒れました。
当時はニュースになりました。
綱で囲ってあるところが大銀杏があった場所↓
その後、倒れた大銀杏は、根元から高さ4メートルまでが、7メートル離れた場所に移植され↓
再生への努力が実を結び、元の幹からも移植された幹からも若芽が確認されたそうです。
楼門の額には「八幡宮」の文字。
「八」の字は、鳩が二羽向かい合ってる形、
境内に群れ遊ぶ鳩は八幡の神使なのだそうです。
鎌倉土産と言ったら鳩サブレ~
鳩サブレの鳩は八幡様の鳩が由来なのだと最近知りました。
「そろそろお腹もすいてきたね・・」
八幡宮をあとにして
小町通りへと繰り出しました~♪
前日にお二人に
「明日、鎌倉に行きませんか~」
と誘っていただき急遽予定を変更して鎌倉を散策することになりました。
当日、私の住むマンション棟の玄関前まで車でOさんが迎えに来てくださり、
午前10時30分、いざ鎌倉へ~
平日とあって道路は全く渋滞なし・・30分足らずで目の前に鶴ヶ岡八幡宮の三之鳥居が現れました。
若宮大路を少し南に下ったあたりに車を止め
二之鳥居から、段葛(だんかずら)の参道が続きます。
段葛は北条政子の安産を祈願して造営された参道で、
道路の中央に二筋の葛石を並べて周囲の道路よりも一段高くなっています。
往時は由比ガ浜まで続いていたのだそうです。
このあたりに目的のお店があるはずなんだけれどな・・
本日の第一目的であるランチを食べに段葛を左に見ながら北へ歩いて行くと
ようやくそれらしきお店が見つかりました。
が、しかし・・・お店の中に人影はなし・・
なんと~この日お店は定休日でした。残念。。。
気を取り直して
鶴ヶ岡八幡宮三之鳥居を記念撮影。
緑の中を走り抜けてく真っ赤なくるま~♪
鶴ヶ岡八幡宮は、日本三大八幡宮の一社。
鳥居をくぐると太鼓橋脇に七夕祭りの飾りが風になびいてきれいでした。
境内の参道を歩くと、右手に源平池。
池の島には旗上弁天社が祀られています。
池は蓮の葉にうめつくされ・・
しかし蓮の花の見頃はこれからのようです。
反対側の立入禁止の方向には綺麗に花が咲いてるのが見えるのになぁ・・残念。
参道をさらに進み
正面に見えるのは舞殿。
頼朝と妻の政子の求めに応じ「静御前」が、ここで舞を舞ったという話は有名ですね。
静は京でも評判の白拍子で清涼殿で雨乞いの祈祷会があったとき選ばれた舞女の中でも
舞においても容姿においても随一といわれたほどの美女だったそうです。
その静は平家追討軍の総大将源義経にみそめられて義経の側室となります。
平家追討の第一の功労者だった義経でしたが、兄頼朝の怒りをかい追われる身となります。
義経は西国に逃れることを決意し、静をともなって都を脱出、
しかし大物浦沖で船が難破し、西国落ちは果たせず、
その後、天王寺、吉野山と義経と静の逃避行は続き、
深い雪の中で、義経一行は追及の手を逃れるため大峰山に向かうことに。。
しかし大峰山は女人禁制、静と義経一行は分かれざるを得ず、
再会を約して別々の道を取ることになりました。
小学生のころ、奈良県に住んでいた私は、吉野山に遠足に行く機会がたびたびありました。
学校の先生に「ここが義経と静御前が別れた場所だよ。」と教わったのは薄暗く寂しい山奥でした。
絵本で牛若丸や弁慶に親しみを持っていた私は、
子供心に兄に追われて深い山中を逃げ、恋人と別れなければならない義経、
義経の子を身ごもっていながら愛しい人と別れなければならなかった静のことを
かわいそうにと思ったことを思い出しました。
義経がつけてくれたおつきのものたちに金品を奪われ、
女性の身で雪の中をさまよっていた静はやがて捕われの身となりました。
義経が平家追討の大願を果たし京都に華々しく凱旋してからまだ半年しか経っていない
1185年(文治元年)11月17日のことだったそうです。
静は京都六波羅で詮議を受けた後、鎌倉へ送られ、鎌倉でも義経探索の厳しい詮議をうけ
そして、頼朝から八幡宮の神前で舞を奉納せよとの命令をうけます。
敵地で、さらし者のような扱いを受けることを拒んだ静ですが
命令には逆らえず、舞を舞ったそうです。
「吉野山 峰の白雪ふみわけて 入りにし人の跡ぞ恋しき」
「しづやしづ賤のをだまき くり返し 昔を今に なすよしもがな」
義経を慕い切々と歌い舞う静に、頼朝は烈火のごとく怒ったと伝えられています。
その頼朝を妻の政子がいさめ頼朝は怒りを解き、静は命を救われます。
1186年(文治2年)4月8日、潅仏会の花祭りの日の出来ごとだったそうです。
その7月、静は安達新三郎清経の屋敷で男児を産みましたが
頼朝はこの児を静から取り上げ、由比ガ浜の海に沈ませたそうです。
その後、静と母の磯禅師は京都へ帰されました。
彼女を憐れんだ政子が多くの宝を持たせたそうです。
静のその後は不明なのだそうです。
悲しい恋をした女性として多くの伝説が残っています。
舞殿後方の階段の上に本宮(上宮)があります。
その長い階段の途中に
かっては樹齢800年とも1000年余ともいわれていた銀杏の木がありました。
建保7年(1219年)1月27日、
源頼家の子で八幡宮の別当を務めていた公暁がこの銀杏の木に隠れて待ち伏せ、
源実朝を殺害したという伝説は有名ですね。
そのことから大銀杏は隠れ銀杏という別名がありました。
平成22年(2010年)3月10日4時40分頃に、強風のために大銀杏は根元から倒れました。
当時はニュースになりました。
綱で囲ってあるところが大銀杏があった場所↓
その後、倒れた大銀杏は、根元から高さ4メートルまでが、7メートル離れた場所に移植され↓
再生への努力が実を結び、元の幹からも移植された幹からも若芽が確認されたそうです。
楼門の額には「八幡宮」の文字。
「八」の字は、鳩が二羽向かい合ってる形、
境内に群れ遊ぶ鳩は八幡の神使なのだそうです。
鎌倉土産と言ったら鳩サブレ~
鳩サブレの鳩は八幡様の鳩が由来なのだと最近知りました。
「そろそろお腹もすいてきたね・・」
八幡宮をあとにして
小町通りへと繰り出しました~♪
by mint-a-la-mode
| 2012-07-05 23:13
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